[ 挑水 no.01, 2003.11.01 発行より]

  「尼港事件」と殉難碑−そして函館

はじめに

 一九二〇年、アムール川河口近くの都市ニコラエフスク(現、ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、「尼港(ニコラエフスク)事件」と呼ばれる惨事が発生し、当時四〇〇人ほどいた在留日本人の大半がパルチザンの手で殺戮された。この事件を知るには、原暉之氏の『シベリア出兵』(筑摩書房、一九八九年)のようなすぐれた書物があるが、事件の経緯だけをかいつまんで記すと左記のようなことであった。

 ロシアに革命が起きると、その影響を恐れた諸国が軍事的干渉をおこなった。極東ではとりわけ日本の活動が突出した。一九一八年一月、日本はウラジオストクの居留民保護という名目で軍艦二隻(第五戦隊)を派遣する。そしてチェコ軍救出という名目で、八月に「シベリア出兵」が宣言され、本格的な派兵が始まった。一方、ニコラエフスクへも同港のロシア砲艦の行動封鎖と居留民保護という名目で、八月に第三水雷戦隊が進駐し、それを引き金に陸軍の派兵もおこなわれたのだが、出兵目的から逸脱しているのは明らかであった。居留民の保護どころか、結果としては、彼らの命を奪う契機になった。

 一九二〇年一月、コルチャーク政権の崩壊によりニコラエフスク地方の反革命軍はほとんど力を失い、僅かな日本軍の兵力をもって「パルチザン」部隊と対峙するという構図になった。冬期間、この町は地理的、気候的条件から各地との交通が途絶え、陸の孤島状態になる。そのような中でパルチザンと日本軍(守備隊)は停戦協定を結ぶ。しかし三月一一日のパルチザンによる武装解除要求に対し、翌日日本軍は停戦協定を破って奇襲作戦に出た。そして、圧倒的な勢力を誇るパルチザンの手によって、守備隊はもとより居留民も戦死するという結果に終わったのである。この時石田副領事一家は自決を遂げ、生き残った日本人は官民問わず捕虜にされたが、五月に入って日本の支援隊が到着する前に、パルチザンによって虐殺された。パルチザンは、逃走に際して白系のロシア人市民をも手にかけ、火を放ったため、町は焦土と化した。

 なおあまり知られていないが、同時期にオホーツク沿岸の多くの日本人経営漁場が同じくパルチザンの手によって焼き討ちに遭っている(これを「オホーツク漁場焼討事件」あるいは「オホーツク事件」という。ただし、命を落とした日本人はいなかった)。

 この事件における私の当面の関心は、犠牲になった日本人について調べることにある。具体的にはどんな人が、どこから来て、何のためにそこにいたのか、周囲のロシア人や中国人、朝鮮人とはどう付き合ったのか、そして事件で彼らを失った故郷の人たちはどうしたのか、というようなことである。

犠牲者たちについての「記憶」

 事件が報道されると、日本中の人びとが大きな衝撃を受けた。各地の新聞には、守備隊や居留民を救出できなかった軍への批判と犠牲となった同胞への同情記事、パルチザンを呪う記事などが掲載された。それほどでありながら、今日の日本人にこれらの事件はどれだけ記憶されているだろうか。ましてや日本各地にニコラエフスク事件の殉難碑があることは、ほとんど知られていないだろう。去る者は日々に疎くなるにしても、彼らが名も無き人びとであったことが、忘却に拍車をかけたのではないだろうか。居留民については、私家版だが小樽市の森川正七氏による『北海の男−島田元太郎の生涯−』(一九七九年)や、函館市の石塚経二氏による『尼港事件秘録/アムールのささやき』(千軒社、一九七二年)という本が参考になった。両書によると殉難碑は左記のように六か所がわかっている。

・熊本県天草郡五和町の東明寺境内にある「尼港事件殉難碑」(一九二三年建立)
・長崎県南高来郡国見町の光専寺境内にある「尼港事変殉難者碑」(一九二三年建立)
・山口県熊毛郡平生町の墓地内にある「尼港殉難者之碑」(建立年不明)
・茨城県水戸市の旧練兵場跡内にある「尼港殉難者記念碑」(一九三五年建立)
・小樽市の手宮公園内にある「尼港殉難碑(殉難者納骨堂)」(一九三六年設立)
・札幌市の護国神社境内にある「尼港殉難碑」(一九二七年建立、一九五五年現在地に移設)

 「尼港事件と地域史」という問題提起は、すでに吉村道男氏が「「ニコラエフスク事件」考」(『歴史地理研究』二七六号、一九七七年)で述べられていることで、殉難碑の調査も提言されている。本稿では満足に答えることはできないが、これらの地域に殉難碑があるのはなぜか、祀られているのは誰か、碑を建立したのは誰か、などということを今後詳細につきつめていくと、犠牲者の背景がみえてくるだろう。また吉村氏も指摘されているように、その一方で、碑もなく、犠牲者を出したことすら忘れられている地域があるだろうことも頭に入れておきたい。

犠牲者数について

 殉難碑を辿るまえに、犠牲者の全体像を検討しておきたい。事件の犠牲者といっても大きくは居留民(すなわち民間人)と軍関係者とに大別できるが、外務省が「尼港事変死亡邦人数」としてとりまとめた数字をみると、「領事館員(家族とも)」が五人、「在留民」が二九二人、「陸軍軍人及軍属」が三四三人、「海軍軍人」が四四人の計六八四人となっている(外務省外交史料館所蔵資料 5.2.17.28-7)。しかし、各資料によってその数字はばらつきがある。

 たとえば先にあげた石塚経二氏の本では、「戦死軍人」の氏名と出身地、階級が載っていてその内訳は海軍四四人、陸軍関係三三六人、外務省関係四人となっている。また、居留民については判明者のみと断って、「遭難民間人名簿三四七名」という住所(ただし、このうち一〇九人が住所不詳となっている)と名前のリストが掲載されている。

 森川氏の本でも居留民の犠牲者数を三四七人として、「尼港事件殉難者(民間人)各県別表」(大正九年七月尼港会調査)というリストを掲載している。

 軍関係者のほうは、外務省の記録と石塚氏の調査では、それほど大きな差がないが、居留民については、その差が大きい。軍関係者については、派遣されていた部隊の記録などからある程度追跡ができそうであるが、民間人犠牲者の追跡調査はきわめて困難である。何しろ居留民を掌握する領事館自体が焼き払われていたし、遺体さえわからなくなった事件について、一人一人の身元を確認することなどは、土台不可能な話であろう。犠牲者数については今はこれ以上のことは言えないが、彼らの素性を調査する手だてはもう少し、ありそうである。

  外務省にある「救恤金」関連資料

 それは、外務省にある関係資料を精査することである。外務省にある資料とは、当時の政府による「尼港事件・オホーツク事件」(救恤金に関しては、両事件はいつも一括して扱われた)の被害者(生存者)及び遺族への「救恤金」関連資料である。一連の資料は、現在は外務省外交史料館に保管されているが、膨大な量である。

 資料が多い理由は、救恤金の交付が一九二二年、一九二六年と二度もおこなわれ、加えて一九三五年には「救済金」という名の下に、いわば三度目の交付もおこなわれたという前例のない事情にもある。その事情については、後述するが、資料群の大きなタイトルは以下の通りである。

・尼港及「オコーツク」事変関係救恤一件(二四冊、分類記号5.2.17-28)
・露国革命関係救恤一件(一五九冊、分類記号5.2.17-32)
・尼港事件(二冊、分類記号A.1.3.3-2)

 資料の中には、居留民たちの背景を知るうえで大いに役に立ちそうなものがある。被害者・遺族が提出した申請書や政府が救恤金を交付した人たちの一覧表、その他外務省による様々な調査ものである。これら外務省の資料からは、犠牲者の職業や年齢はもちろん、彼らのニコラエフスク(及びオホーツク)における生活を物語る貴重な資料も見受けられた。気の遠くなるような時間がかかりそうであるが、これから少しずつでもみていかねばならない。本稿でもいくつかは用いたが、一括して外務省資料(各分類番号を表示)と記したので、ご了解いただきたい。

救恤金交付の背景

 さて、政府がなぜ前例のない三度の交付をしたのかは重要な問題なので、多少長くなるが、その事情を明らかにしておきたい)。

 外務省資料(A.1.3.3.2-1)に加えて、被害者の一人島田元太郎の著になる「尼港事変損害賠償成立ニ関スル報告書」(市立函館図書館蔵)という資料を用いた。交付する側とされる側の文書をつけあわせると興味深い事実が読みとれる。

 救恤金交付のきっかけは、ニコラエフスク在留日本人で最大の成功者といわれた島田元太郎(ピョートル・ニコラエヴィチ・シマダというロシア名もある)という人物が、事件後、事業再開にあたって日本政府に支援を求めたことにあった。これに対し政府は、基本的には、事件による被害者・遺族への賠償は本来はロシア政府がなすべきもので(政変後、かの地にしかるべき政府が樹立された時)、日本政府にはその義務はないという立場であった。かといって、困窮している国民をそのままにもできないので、「救恤金」として交付する(すなわち憐れみ与える)としたのである。かくして一九二二年に交付がおこなわれたものの、その金額は、被害者・遺族の補償要求額には全く満たないものであった。

 一九二五年初頭、日本政府は北京においてソ連という「しかるべき政府」と国交樹立交渉に臨んだ。両国にとって、ニコラエフスク事件問題解決は一つの大きな障碍であった。日本はニコラエフスク事件の補償占領というかたちで占領していた「北樺太」をソ連に返還することになる。が、その時ニコラエフスク事件に対してソ連から得られたのは、「遺憾の意」ということばのみで、物質的賠償はなかったのである。

 それは、日本政府が、「北樺太及其他ノ地方ニ於テ特ニ有利ナル長期利権ヲ許与スルニ於テハ此要求(被害賠償─筆者)ヲ主張スルコトヲ差控フヘシ」という訓令を出していたからであった。すなわち北樺太の利権と賠償要求を天秤にかけたのである。そのような背景があって、両国間の交渉では物質的賠償は議題とならず、利権問題に終始した。そして賠償問題は「将来ノ商議ニ留保スル」とされたのである(外務省編『日「ソ」交渉史』、昭和四四年第二版)。

 一九二六年に再度「救恤金」が交付されたのは、上述の経緯とは無関係ではありえない。政府は、「ソ連」に賠償責任があるとしながら、それを交渉の場で利権がほしいばかりに、ご破算にしてしまったのだから、少しは後ろめたい気持ちがあったのだろう。内実は、この時点から被害者への賠償は、日本政府の問題になっていたのである。

 ソ連から補償を得られなかった被害者・遺族は、その不満を政府にぶつけた。これは、事実上島田元太郎の執念といってもよいのである。こうして一九三三年になって、ついに第六四議会に「尼港事変被害者救恤問題」が提議された。島田の報告書によれば、時の内田外相は、事件当時の外相でもあり、ある程度経緯を知っていたので、大蔵省に追加予算を提出したのだという。しかし、その内田といえども、大蔵省を動かすことができなかった。

 翌一九三四年の第六五議会でも、この問題が提議され、内田に替わった広田外相が「事実上、ソ連に請求してもソ連は払わないだろうと思う。外務省としてこの問題解決には出来るだけ尽力したい」との答弁をおこなった。広田は北京での国交樹立交渉時の立案者で真相を諒解していたのである。

 島田はこの機会を逃しては解決の望みはないと覚悟を決め、なぜこの事件のみ特別に三度も救恤金を出すのかとしぶる大蔵省に対し、自らが同省に出頭し、救恤ではなく、賠償なのだと説き伏せた。こうして一九三五年、外務省はついに「実質的ニ北樺太利権ハ尼港事件ノ代償トシテ獲得シ得タリト解セラルル」として、ニコラエフスク事件(オホーツク事件も含む)については、政府の責任で補償をするということになったのである。なお以上のような顛末から「救恤金」は「賠償金」となるべきところだったが、対ソ連外交上の配慮から、賠償の意味を含む「救済金」として決着したのだった。

 参考までに、尼港・オホーツク両事件に対し政府が三度にわたって交付した金額と対象者数を掲げておく(表1)。

熊本県にある「殉難碑」

 話を犠牲となった居留民にもどそう。石塚・森川両氏の著書からニコラエフスク事件で犠牲となった居留民を道府県別にして表2にしてみた。石塚氏による数字に不詳が多いせいもあって、両者には食い違いがある。しかし大方の傾向は読み取れよう。熊本県が圧倒的に多く、さらに長崎県が続いている。両県で全体のほぼ半数を占めている。両県の犠牲者には女性もかなり多いのであるが、彼女たちがニコラエフスクで何をしていたのかを外務省資料(5.2.17.28-5)でみてみると、「娼妓」、「酌婦」、「妾」が少なくない。つまりあの「からゆきさん」と呼ばれた人たちである。彼女たちの年齢をみると十歳台、二十歳台という若い人が多い。

 救恤金が交付された熊本県のある人の書類には、「長女は露人の妾」、「三女は日本人の妾」と書かれていた。このように複数の娘を亡くしている例も少なくない。からゆきさんについては、「……日本に帰れば国の恥/家に帰れば親の恥/末は露助かチャンの妻」(『勝田市史』近代・現代編1、一九七九年)という歌があったそうだが、彼女たちが世間や国家からどれほど冷酷に扱われたかは、政府の救恤額算定にもあらわれている。外務省資料(5.2.17.28-7)によれば、算定するといっても、個々の犠牲者・被害者の所有財産調査が不能なため、五四種類の職業区分をして一定の額を定めたことがわかる。そのうち、妾、娼妓、酌婦に提示された金額は一件平均六五円と五四区分の中の最低であった。最も高額でとびぬけていたのは材木商の一万円である。彼女たちの仕事は「正業」に対し、「醜業」と差別され、正業者に対しては在留年限により、割増金が加算されたのに、その恩恵にも浴することができないなどの不利益があった。

 熊本県の中でも特に天草地方からは、上述の女性たちも含め、大陸に出稼ぎにいった人が多かった。そのことは、石塚氏が詳述している。出稼ぎの始まりについての部分のみだが、以下に引用しよう。
 「…天草列島の北部にある手野部落があるが、ここの出身者池田清太・ユキ夫婦と鬼池部落出身の池田団造・モカ夫婦が明治二十八年頃女性をつれて尼港に渡り水商売を開業したのがここの草分といわれている。時折り帰郷して女性を募集していったが、その羽振りのよい暮らしぶりは部落の評判になって、つてを求めて出稼ぎする者が増して行った…」
 ここに名前のある池田清太夫婦、池田団造夫婦も事件で帰らぬ人となった。熊本県天草郡五和町にある慰霊碑(全天草郡の殉難者一一〇柱が合祀されている)は、遺族が集まって建てたものだが、そのような背景を持つのである。

長崎県にある「殉難碑」

 慰霊碑をたどって北上していくと、長崎県南高来郡国見町(旧土黒村)は、島田元太郎の出身地であり、ここにある慰霊碑は彼が島田家先祖代々の墓の隣に自費で建立したものだった。島田はニコラエフスクに、総合商社ともいえる島田商会を設立し、大成功をおさめた。事件の時本人はたまたま同地を離れていたため、難を免れたが、商会の従業員の大多数が犠牲となった。商会本店にたてこもった日本人は一般避難民を含めて約六〇人といわれ、全員がパルチザンの砲撃をうけ死亡したという。従業員の出身地は様々だが、島田の同郷人が多く、同店の関係者の遺骨や遺品が国見の慰霊碑に祀られた。島田が当時ニコラエフスクにいたならば、パルチザンとの交渉に成功して、このような悲惨な結果をみなかった可能性があるという見解もある(森川前掲書)。

 しかし、島田商会は、現地の住民から「ブルジョアジーの代表格」として深い憎悪と怨恨を買っていたというように(原前掲書)、島田という人物を単なる成功者としてみることはできない。この事件で、彼もいやというほどそれを知らされたわけだが、それゆえに、自分が生き残り、従業員や居留民を死なせたことに対する苦悩も大きかったのではないかと思われる。

 後年の彼の心境をあらわす手紙(一九三五年八月一〇日付け、函館在住中村集逸宛て)の一節を紹介しておきたい。前にふれた市立函館図書館にある「報告書」に添付されていたものである。
 「…函館図書館長の希望に依り弊店発行の商品券、小生の略歴及写真等図書館へ御保存被成下候事は此上もなき光栄と存候得共小生の如き失敗者の伝は却而図書館をけがす恐れ有之所謂敗軍の将は共に兵を語らずと言ふ諺も有之此際御遠慮致度思考仕候…」
 昔の侍のような潔さだが、そういうわけで、市立図書館には島田の写真も履歴書もなく、たまたま持ち合わせたという「商品券」のみが今でも保存されているのである。

山口県・茨城県・北海道にある「殉難碑」

 山口県にある碑は、陸軍大将田中義一の書で「大正九年三月十二日 共匪討伐ニ参加戦死ス 河内寿一 行年三十七歳」と刻まれているという(森川前掲書)。函館の新聞を読んでいて、意外にもこの人物が函館と深い関係があったことがわかった。河内寿一という人は本籍こそ山口県熊毛郡にあったが、兄弟三人で函館に寄留しており、河内商会という店を開いていた。そして函館のほかに、ニコラエフスクにも店を開いていたのである。事件によって、ニコラエフスク店の河内寿一は店員八人ともども殺害された。なお、店員のうち二人は函館の出身であった。函館には兄にあたる河内友吉と弟の乙一という人が残っていたが、この碑は、兄弟の手によって故郷に建立されたものかも知れない。

 次に茨城県水戸の殉難碑である。これについては、大江志乃夫氏によってまさに「地域の問題」として執筆されているものがある(前掲『勝田市史』)。ニコラエフスクで孤立無援となり、全滅した守備隊は水戸の歩兵第二連隊第三隊長石川正雅少佐が指揮する第十一中隊と第十二中隊だった。この連隊の犠牲者三〇七名のうち茨城県出身者は二八一名を占めていた。実に九割である。この地にあるのは、いうまでもなく彼らの慰霊碑である。

 大江氏は守備隊と居留民を死に至らしめたのは、軍の失態であるとし、一方で国民に不評なシベリア出兵にたいする世論挽回に「尼港事件の惨劇」は絶好の宣伝材料とされたと記している。さらに同時代において、水戸にはそのことを真っ向から批判していた言論人がいたと紹介されているが、これが非常に興味深い。

 この人物は茨城民友社社長の長久保紅堂で、彼の書いたものを読むと、「県民感情」として、守備隊を見殺しにした陸軍の無責任さに声を出さずにはいられなかったことがよく伝わってくる。さらに、彼はその背景にある「軍閥」の問題にまで目を向け批判をおこなった人だということも知った。地元にあっては、ともすれば筆致は感情的、感傷的になりがちだろうに、問題の核心をとらえていた。

 大江氏は「むなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった」と締めくくっている。長久保の論は後世の目にも、色あせることなく訴えかける力がある。大江氏の言うとおり、声を出せない兵士の代弁者である。それにしても郷土に誇る人物がいるというのは幸せなことだ。

 最後に北海道にある殉難碑である。小樽の碑は、一九三七年に市内在住の藤山要吉が私財を投じて建立した。彼の名前は有力な樺太漁業家としても知られている。碑が建立される前、一九二四年に、小樽では市民の総意で、日本軍支配下の北樺太アレクサンドロフスクに保管されていた犠牲者の遺灰(木箱四八個)を譲り受け、市内の浄応寺に保管していた。そしてこの時招来された遺灰の一部(二四箱)は、水戸に合祀されたという(森川、石塚前掲書)。

 小樽市民がこのように熱心に慰霊をおこなったのは、樺太や沿海地方の諸港と密接なつながりを持っていて、小樽港から人も物資も見送ったという記憶があり、他人ごとではなかったからだろう。また一九二〇年四月にニコラエフスクへの救援部隊が出港したのもここからであったし、ニコラエフスクから石田副領事一家の遺骨をはじめ守備隊の遺骨が到着した港だったことも大きな要因であろう。

 札幌の殉難碑については、札幌護国神社に照会してみた。もともとは在郷軍人によって一九二七年に建立されたという(森川・石塚両氏によれば、事件後救援に参加した兵士たちが「丸山村界川」に建てたとある)。この碑は殉難者全員を祀っているもので、当時は仏教連合会が慰霊をおこなっていたが、その後建立された土地が農地解放によって、所有権が移転されることになり、一九五五年に現在の護国神社に移ったそうである。現在でも毎年慰霊祭がおこなわれている。

そして函館

 函館には殉難碑もなく、他にとりたててこの事件を思い出させるような遺物もない。しかし、忘れられているだけで、ニコラエフスク事件・オホーツク事件とは浅からぬ関係を持っているのである。これまで函館市の歴史の中では、ほとんど記されてこなかったが、この事件はその一ページとして加えられなければならないだろう。

 「救恤金」を交付された函館(大野村を含む)在住の被害者・遺族を取り上げてみると、ニコラエフスク事件の遺族は一〇人(犠牲者は一一人)、オホーツク事件の被害者は五人となる。表3を参照されたい。函館は北海道の犠牲者の大半を占めている。その上実態としては、関係者はもっと多い。

 事件で夫を亡くした函館在住のある女性は「内縁」であったがために「救恤金」の対象とされなかったから表には含まれていない(他県に住む血縁者に交付されている)。だが、事実上の遺族である。また犠牲者は函館在住であっても、申請者が他府県、あるいは道内の他地域である場合などは表中の数字には入れられていない。新聞記事でわかっただけでも、そういうケースが五人もあった。山口県の河内寿一もその一人である。また島田商会の支配人関竹三郎の実弟は函館在住で、函館ハリストス正教会で追悼祈祷が営まれているといった例もある。オホーツク事件でいえば、日魯漁業(株)や日本毛皮(株)など函館に関係する会社も救恤金の対象となっているが、会社の登記上、本社は東京や兵庫になっているため、数としては函館には含まれていない。

 表3に掲げられた人たちにはそれぞれの人生があった。そして遺族にも。将来ある子どもを亡くした親のことばは悲しみに溢れている。一九歳でこの世を去った一一番の男性の父が提出した書類には、息子は函館中学校を卒業し、将来は貿易商として独立するため勉強のつもりで商会に入ったのに、夢は無惨に潰えたとあった。この頃、函館中学校を卒業したというのは、エリートといってよいだろう。それも市内ではなく大野という農村の出身である。期待の息子だったのである。書類の中には、救恤金算定のための彼の所持品の調書があった。木綿布団や丹前などの寝具に、同じく木綿の羽織・袴といった被服と僅かな身の回り品が列記されているのみで、その質素さが妙に胸をうった(外務省資料 5.2.17.32.52-4)。

 なお、犠牲者の中にただ一人女性がいるが、彼女についての信じがたいエピソードが大正九年一〇月二一日付けの「函館新聞」に掲載されている。函館の漁業家が事件後、ニコラエフスク近郊の漁場で操業準備をしていたところ、足袋が浮いていたので近寄ってみると、腐乱した死体が真っ逆様になっていた。足袋のこはぜに墨で「まつ子」という名前が書いてあったという。漁業家はとりあえず遺骨を函館に持って帰った。たまたま函館には「まつ子」という名の犠牲者の遺族がいたので、骨箱を持参したところ中にあった金歯等から、それが彼女であることが確認された。七か月ぶりに骨になって故郷に帰ってきたという不思議な話である。なお、彼女の左手は切断されていたが、金の指輪を二個はめていたので、パルチザンがやったことだろうと書かれている。

 函館は、露漁漁業の基地であったから、両事件の起こった地域とは密接な関係があった。それだけに関係者も多く、義捐金の募集や慰霊祭が手厚くおこなわれていることが新聞などから読み取れる。函館有数の実業家小熊幸一郎にいたっては、義捐金として個人で千円という高額を寄付している。

 ところで、函館という地域に関していえば、この両事件は別な側面を持っていることにふれなければならない。ロシア極東沿岸地域に出漁する日本人漁業家は「ザイェズドク」という漁法で「鮭鱒の乱獲」をおこない、島田同様、経済的支配者として、住民間に反日感情があったと原氏は指摘している。単に事件の被害者に留まらない問題を内包しているわけだが、同時代の函館の新聞には、管見の限りそのような指摘は見つからない。もちろん漁業を通して関係の深い地域であるとの記述はあるのだが、事件との因果関係に注目することはなかったようである。豊漁・不漁に関心はあっても、現地の事情にまで関心を持った人はいなかったのだろう。

おわりに

 これまで、殉難碑のある地域を中心に述べてきたが、この事件の被害者・遺族はいわゆる「内地」だけではなく、朝鮮、関東州、樺太などの「外地」にもいたことを付け加えておく。

 脱稿後、隈部守氏の「尼港事件と島田元太郎 郷土人からみた現代史」(『嶽南風土記 有家史談』第四号、一九九六年)という論考を読む機会があった。隈部氏は一九九三年にニコラエフスク・ナ・アムーレを訪れ、現地のロシア人研究者から尼港事件について話を聞かれたようである。その中に「…島田の略奪的漁法「サイェズドク」、日本人「ニコライ」に罪があるとする論評は無用であった…」、「…島田商会が「深い憎悪と怨恨を買っていた」話は聞かなかった…」というくだりがあって、とても気になった。

 当時のロシア人が、日本人居留民や漁業者にどのような感情をいだいていたのか、自分の目で同時代の現地の新聞などを調べたいと思う。また、ソ連が崩壊してすでに一〇年を迎えようとする現在、ロシア人がこの事件をどう考えているのか、ソ連時代ならば「日本人による水産資源の掠奪」という論調が強かったが、それが変わったのかどうか、やはりこれも自分の目と耳で調べなければならないと感じた。

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